ユング 「記憶、夢、思い」

投稿日: 2014年4月1日カテゴリー: ブログ

ユングの臨死体験です。

そのとき奇妙な事が起きた。自分が、自分の何もかもが、抜け殻のようになってしまったようだった。
私が目指したもの、望んだもの、考え、この地上の存在の全ての幻影的なものが抜け落ち、私の内からなくなった。
それは非常な痛みを伴った経験だったが、後に何かが残った。
今や私は、私が経験したもの、した全ての事柄、私の周囲で起こった全ての事柄だけを持つもののようだった。
それらは私と共にあり、それらが私の全てだった。
私はそれらからなり、自分の歩んできた人生から成る者であって、非常な確実さを持ってそれを感じた。
それが私だった。
私は私としてかってあった者、かって成し遂げたものの総計だった。
この経験は私に、大きな欠乏の感覚をもたらしたが、同時に非常に満たされた感覚をもたらした。
もはや何もほしいと思わず、何も望まなかった。
客観的対象としてのみ私は存在していた。
私はかって歩み、生きたもの以外の者ではなかった。
当初、これは何かが抜け落ち、取り去られたという消滅の感覚だったが、突然、それは何かの結果ではなく、元からあるものになった。
全てが過去のものに思えた。
あるのは単にそこにある既成事実だった。
もはや何かが抜け落ちたとか、取り去られたという悔やみはない。
むしろ反対にかって自分として本当に持っていたもの全てを私は持っていた。
現実に3週間ほど経ち、私はもう一度生きようと決心することが出来た。
食べる事はできなかった。
どんな食物も受け付けられなかったからだ。
また私の病床から見える町や山々は、私には点々と黒穴のあいた、絵柄カーテンのように思えたし、意味の無い写真をちりばめたボロボロの新聞紙のようにも見えた。
失望だ、と私は思った。
「もう一度ボックスシステムに戻らねばならない」
というのは私には宇宙の地平線の向こうにには3次元世界が人工的に造られていて、その世界の人々はおのおのの小さな箱の中で事故と対座していると思われたからだ。
これこそが重要だったと、異な自分を納得させなければならない。
かっては人生と全世界が牢獄のように私を打ちのめしたものだ。
それらを秩序あるものとして理解すべきだという考えが、私をひどく悩ませた。
それら全てを脱ぎ捨てて、私はあのように喜んでいたのに、今また他の人と同じようにはこの中に糸で吊るされようとしていた、、、、、。

この独特の経験ののち、ユングは死後の世界を思うことは完璧に正常であり、病的ではないと思ったと書いている。
むしろ彼は、死後の生命や神を思わない人のほうが病的だという。

どうですか、理解できたでしょうか。
理解は難しいですが、死とは私たちが思ってるものとは違う可能性は大きいと思われます。
たぶん死についての恐怖こそ、私達に植え付けられた最大の思い込みと言うより、罠なのかもしれません。
死の恐怖を持たない人を支配する事はできません。
お金に価値観を持たない人を支配する事ができないのと同じ事です。
と言う事はお金に価値を見出すのも大きな罠なのかもしれません。
考えるのはあなたです。
臨死体験者の多くは死を恐れなくなります。
生き返ったとたんに、医者に何で生き返らせたんだと怒る人もいるくらいです。
死は避けるものではありません。
いつかあなたに確実に来るものです。
私達は神のことを追求するのと同じように、また死をも追求しなければなりません。
死を乗り越えたところに神はいるのでしょう。
この神は、特定の名前のある神様ではありません。
神様の事を知らない人がなぜ神様に名前をつけることが出来るのでしょう。
神様の名前でけんかをしたり殺し合いをするのは考えられません。
神様のことを知らないからこそ、けんかとか殺し合いはあるのだと思います。

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